アニメ「鬼滅の刃遊郭編」は、大正時代の浅草の吉原遊郭が舞台になっていましたね。
吉原の最盛期であった江戸時代
吉原遊郭に行くには、隅田川を船の先が細長い高速の猪牙舟(ちょきぶね)で行くのが「通」とされていました。
そして、今戸(現在の桜橋の近く)から、山谷堀(さんやぼり)に入り、途中で降り駕籠(かご)で吉原まで行きました。
山谷堀に沿って、日本堤(にほんづつみ)という土手が、隅田川の氾濫を防ぐために造られました。
全国の大名に造らせたから「日本堤」と呼ばれたそうです。(諸説あります)
今戸から、東京メトロの三ノ輪駅あたりまで約2キロ続いていました。
一方、江戸初期に作られ約700メートルの長さがある山谷堀は、約50年前にあたる1975年までに悪臭がひどく埋め立てられました。
今は、公園となり桜の木が植えられて花見の名所となっています。
山谷堀には9つの橋がかけられていました。
現在は全て埋め立てられ橋の親柱といわれる部分だけ残されています。
その面影を探ってみました。
1. 今戸橋
今戸橋のあたりには料亭が立ち並び、芸者衆とお客でにぎわっていたそうです。
すぐ近くに、今戸神社があります。
今は縁結びの聖地として有名です。
平安時代の1063年に、源頼朝のひい爺さんらが、京都の石清水八幡宮の分霊を鎌倉の鶴岡と、浅草の今戸に祀り(まつり)ました。
ひょっとしたら、1192年(近年は1185年とも)に源頼朝の鎌倉幕府ならぬ浅草幕府ができていたかもしれません!?
聖天橋の名前の由来となった待乳山聖天(まつちやましょうでん)があります。
聖徳太子が天皇に代わって政治を行っていた時代である595年、この地が一夜にして盛り上がったとされています。
その山を切り崩して「日本堤」が築かれたそうです。 当時は相当大きな山だったのでしょうね。
「鬼平」で有名な、池波正太郎さんは聖天町の生まれで、待乳山聖天から隅田川を眺めるのが好きだったそうです。
3. 吉野橋
山谷堀は吉野橋までは広く、ここから先は狭くなるので
ここで客は舟を降りて駕籠に乗ったとされています。(どこで舟を降りたかは諸説あります)
すぐ近くに、葛飾北斎終焉地の寺、「遍照院(へんしょういん)」があります。
本堂の左手に長屋があり、ここで90年の生涯を終えました。
生涯93回の引っ越しをして93回目の引っ越しになりました。
4. 正法寺橋(しょうほうじばし)
すぐ近くに、正法寺があります。
5. 山谷堀橋
6. 紙洗橋
紙を洗うって不思議ですよね?
このエリアの紙とは、使った紙をリサイクルした「浅草紙」と呼ばれたもの。
紙屑屋が使った紙を回収し、このあたりにいた浅草紙職人が、細かくした古紙を釜で茹でやわらかくして桶で冷やした後水気をしぼり、山谷堀で洗い、台の上でひたすら叩き平らにした後に、木製の枠で漉き(すき)直して板に張り天日で乾かしていたそうです。
ちなみに、桶で冷やす作業を「冷やかし」と言いました。
冷やす2時間の間は職人はやることがないので、近所にある吉原遊郭に行ってただ見物するだけでした。
そこで、遊女達が「また冷やかしが来た」とはやしたてました。
ここから、商品を買わずにただ見るだけの行為を「冷やかし」と言うようになりました。
現存する最後の橋です。
さて、いよいよ吉原遊郭の近くに来ました。
徳川吉宗の時代に創業した提灯屋の大嶋屋があります。
地方(じかた)とは、舞踊の時に演奏する人のことです。
もしかしたら地方がたくさん住んでいたのかもしれません?
9. 日本堤橋
日本堤橋は100年前の関東大震災で壊れて以来復旧されませんでした。
他の8つの橋に比べてかわいそうな感じがします。
そして、いつの間にか忘れ去られました。
地方橋の先は、台東区土木部材料置場になっています。
100年間放置された感がします。
対岸に残る石垣は当時の山谷堀の石垣です。
そして、橋の土台と柱めいたモノが見えて来ました。
そうです。これが、幻の日本堤橋なのです!
近所の方に聞いたら、これが日本堤橋だと教えてくれました。
山谷堀は埋め立てられましたが、歴史が今もしっかり流れていました。